屋根裏部屋
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少年は丘を越えて

 雨に濡れた鎧から革と鋼の匂いがし、ウルは確かにスジニの肌の匂いを嗅いだ。陶然とした表情が浮かび、次の瞬間、怒ったように唇を噛んだ。人知れずくるくると表情を変えながら、ウルはスジニに手拭を渡す間合いを計っていた。新兵のために将軍はたびたび弓場を訪れていたが、それも間遠くなりはじめていた。決まりきった訓練を繰り返すようになると、あとは小隊長や隊長に任せることになる。
 スジニがようやく矢懸を外したので、ウルは手拭を差し出した。少年が今か今かと待っていたのをスジニは知っていた。
 「ほんとにお前は気が利くね。侍従にでも向いていそう。」
 「じじゅう?」
 「身分の高い方のお世話をする者のこと。」
 「じゃあおれは将軍のじじゅうだ」
ふざけて言うのにスジニは答えなかった。
 「一体どう育ったらこんなに目端が利くようになる?」
育ちを聞かれてウルが黙った。目の色が暗く沈んだ。
 「言いたくないからみんなに嘘を?ならば黙っていればいいのに。」
 「嘘じゃない。」
ウルが立ち上がり、ぽつぽつと上がりはじめた雨を窓辺で眺めながら答える。将軍の控えの間には濡れた道具が一杯に広げられ、そこらじゅうに湿り気を発散していた。ウルは弓懸を胸に抱いてそっと中に手を差し込むと、ごしごしと拭った。
 「みんなほんとのことだ。親がないのも、色街で育ったのも。生きていくためには何だってやった。」
 「弓の修練も生きていくため?」
スジニの問いに、ウルの手が止まった。狼狽したように弓懸から手を抜くと、振り返って笑った。
 「そう。弓さえ上手くなればって。」
赤い唇が弧を描き、細められた瞳が暗く輝く。スジニは肌がぴりりと引き攣れるような気がした。妙な気配を振り払うように、その向こうの窓の外を見る。雨が上がっていた。
 「濡れたものを外したばかりだけど、少し教えてやろうか。」
 「将軍が、おれに、弓を?」
ウルが頭を振ってくっくっと笑った。
 「なんだ、不服なの?」
 「じゃあおれと勝負だ。」
なおもくくっと笑いながら走り出て行く。おかしな子。首を傾げながら、スジニも続いて弓場に出た。さきほどウルが拭いていた弓懸はまだじっとりと湿っている。濡れてはめにくいそれをつけながら、片頬に妙な気が注がれるのを感じた。ちらりと目を走らせると、ウルの矢がこちらを向いている。少年の瞳はうっとりと暗く輝き、そこにスジニの目が合った。スジニは目を逸らさなかった。やがてふいっと少年の気が消えた。
 「矢を味方に向けるな。軍隊での基本だ。」
ウルはおどけたように大げさに弓を下ろした。
 「味方?」
武器は敵に向けるものだろう?矢をつがえたら冗談でも味方に向けるな。スジニが呆れると、敵に向ける、ふふん、と気がない調子で繰り返し、構えたままで的を探す。楽に引き絞ってそのまま放った。柱に括り着けられた藁束の、左胸の位置にぐさりと刺さった。おかしなやつだが確かに腕はいい。それを読んだようにウルが笑った。
 「連射五本で何を賭ける?」
スジニの眉が上がる。
 「何か欲しいものでもあるの?」
薄赤い弓形の唇がゆっくりと開いた。
 「将軍が欲しい」
スジニは耳を疑った。ウルはそのままスジニを見つめてにやにや笑っている。
 「お前ね、ふざけるのもいい加減におし。」
 「ふざけてなんかない。」
 「ガキが意味もわからずそんなことを言わないの。」
ウルの瞳が煌めいた。
 「男娼上がりだという噂は聞いた?」
スジニは背中にぞっと粟立つものを感じた。スジニが黙ったことで満足したかのように、ウルは妙な気を納めた。
 「すいません。王様に悪いからやっぱやめ。勝ったら隊長って呼んでいい?」
 「どうしてまた隊長なの。わたしは将軍だし、本物の隊長たちが困るでしょう。」
ようやく年相応に戻った少年にスジニはほっとした。
 「古い人たちが、昔そう呼んでいたと言ったから。将軍では偉すぎなんだもの。おれからは遠すぎる。」
苦笑しながらスジニは弓筒を背負った。弓場の中央に出て行く。ウルも弓筒を背負って後に従う。先にウルが動いた。瞬く間に五本の矢が放たれ、二本、二本、そして一本。隣り合った藁束の首と左胸の位置に命中していた。こいつは急所を知っている。
 今度はスジニが地を蹴った。宙で一回転し、着地して走り抜けると、鮮やかに五本の矢が残された。並んだ藁束と的にそれぞれ一本ずつ、五つの標的の首の位置が射抜かれている。ウルの目が驚嘆に見開かれた。
 「戦では首を狙う。一矢で効くからね。完全に殺さなくても戦力から落ちればそれでいいの。お前のは少ない敵の息の根を止めるやり方だね。一騎打ちのような。」
 ふたりはそれぞれ自分の矢を回収しに歩いた。
 「別に呼びたいように呼んでいいけど、隊長っていうのは人がいない時にね、そうでないと、本当にみな混乱するよ。」
 「わかった。隊長。」
ウルは嬉しそうに答えた。ほんとうに変わった子だ。つい譲歩してしまうのはなぜなのか。少年の狙いすました甘えに、スジニはいつの間にか乗せられていた。

 

 腕を回して包んでもスジニは上の空だ。王は寝台に肘をついてその顔を覗き込んだ。なんだかとても疲れました。スジニはぐったりとその胸に顔を押し付けた。あの子は何かがおかしい、何かがぐいぐい懐に押し込んでくるのをスジニは感じていたが、それが何なのかわからなかった。
 同じ頃、兵舎の粗末な寝台に細い身体が投げ出されて毛布に潜った。
探していたのは高句麗の弓隊長だ。きれいな将軍。きれいな隊長。雨に濡れた肌の匂い。少年の幼い欲望が頭をもたげていた。背を丸めて横になったまま、ウルは自分を弄びはじめた。幼く美しい眉が切な気に顰められた。

 
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