屋根裏部屋
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遼東にて

4 闇の一族

 川風が渡って行った。確かに、避暑という言葉に似合いの土地だ。
 —もうすぐ見えなくなる。
 そう言った安氏の体のためか。毒味役というのが言葉の通りなら、物騒な後燕王の側でどのように使われたものか。そうした体が解毒に堪えかねてどうなるか、スジニにはおおよそ察しがついた。失明の恐れも蒼白の顔色も、そのためかもしれなかった。
 「わが一族は獣や人の屍を生業として来た。それがやがて暗殺や売色。われらは誰の閨にでも入り寝首を掻く。そのためのあらゆることに備えて育つ。」
言い放った青年の頬はまた少し紅潮している。若さゆえの露悪か強がりか、そびやかした肩が小さく震えていた。座に戻った太王は、音を立てて脚を投げ出し腕を組んだ。
 「そんなものを誇るな。馬鹿者。意に添わぬ汚れ仕事は断れ。どのように生きるのかは自分で決めろ。」
族長に向けられた言葉には、怒りともまた違うものが混じっていた。穏やかなそれが青年をますます激昂させた。
 「逃げろとでも言うのか!逃げられるとでも思うのか?お前に何がわかる!われらの何がわかるというんだ!」
 唸るような声を上げ、懐に手を伸ばす。闇の一族に殺気が漲り、応じた近衛隊が一気に距離を詰めて幕を引き倒した。背後に控えた小姓も薄衣の芸妓も、細い匕口を逆手に構えて間合いを計っている。その隙にスジニも素早く動いた。降ろしたままの弓に矢を当て、速射の構えで弦を握っていた。
 「やめておけ。われら二百は千騎にまさる。この朱雀だけで何人と戦うと思う?こいつが弓矢を手にしているときはもう少し命を大事にしろ。」
穏やかだがよく通る声が響いた。
 「それに大事になると後燕が気づくぞ」
悠然と右手を掲げた姿にいくつもの角笛が応え、やがて地鳴りのような音のうねりが返ってきた。
 「契丹か」
青年が呟く。ふふ、と漏れ始めた安氏の暗い笑いは、静まり返った野をひと渡り流れ、殺気をだんだんに削いでいった。まずスジニが矢を納め、近衛兵は構えを解いてゆっくりと下がった。続いてようやく安族も刃を降ろした。片膝をついて首領の背後に控え、先頭には弟が深紅の袖を草上に広げている。一族がずらりと膝を揃えた様は、まるで舞でも始まりそうな華やかな毒があった。
 「私怨で戦をするな」
 「われわれは戦はしない。だが巻き込まれ加担したことにはケリをつける。」
安氏は頬杖をついて吐き出すように言った。
  「…王というのは戦ばかりしたがる…太王はなぜ戦をし国を広げるのだ」
兄に続いた青年の呟きに、太王はかすかに顎先を上げた。幕が落ちた野を見渡し、遠く川の向こう岸に視線を走らせた。
 「神代のむかし—天孫が治める国があった。争いのない世、民は平和に暮らしたという。人にもそれが出来はしまいか—。わたしは戦をなくすために戦をしているつもりだ」
スジニの唇が動いた。チュシン。胸の奥底に沈んだ懐かしい名だった。
 「太王はその国を再建していると聞く」
 —さてな。わからん。わからぬが——
 「…憎悪の鎖が戦を生むのだ。報復などやめろ。逃げられぬ縁なら高句麗に来い」

…高句麗に、来いだと?

 安氏の口元が綻び、は、と勢いよく笑いが溢れた。光る隻眼がまっすぐに太王を見た。風がふたりの髪を乱して抜けていった。
 「王に生まれた王と、名高い将軍を見て満足だ。わたしは美しいものが好きなんだ」
 反吐のような汚辱の中で生きてきたからな—。闇の首領は胸の内で続けた。悪縁を断ち切れと。自ら汚辱から抜け出よと。王に生まれついた者はなんと簡単に言い放つことか。
 「今年、帯方は長雨で不作だそうな」
 太王の片眉がかすかに上がった。
 「知ってはいるんだな」
 「今年の穀は取らぬことにする。ああ、これからも取らぬ。今まで散々世話をした高句麗王が治めればよい。港は両国とも執心しているから少々面倒かもしれないが」
 「心配無用だ。」
 向き合ったふたりが同時に苦笑し、呆れたように首を振った。スジニは眉をひそめたまま聞き入っていた。やはり安族はまた後燕王を殺すのだ。今度は自分たちのために。
 「港をおさえたら、帯方に来い。」
 「いや」
即答が返った。
 「王などというものからは離れて生きることにしよう。踊り詠じながら、言祝ぎ、鎮め、流れるように暮らす。遥か昔、われらはそういう民であったはずだ。すべてを終えたら、われらが昔いた場所に還る」
 高句麗王は腕を組み、目を閉じてゆっくりと二度頷いた。ふたりとも遼東のことは口にしなかった。
 取り散らかった宴席を風が吹き抜ける。兄弟の深紅の衣が揺れた。するりと立ち上がった弟の袖が翻り、片割れの扇が優雅な曲線を描く。どこからともなく笛の音が重なった。
 「名は何という」
 「闇の者に名乗る名などない」
やはりどこか誇らし気な若者に、兄の声が被さった。
 「ソドク。弟の名はソドクだ」
ふたりのタムドクは、もう一度互いをじっと見つめた。安氏は物憂げに片肘をついたまま、太王が立ち上がるまで視線を外さなかった。ソドクのしなやかな舞を目に焼き付け、太王は踵を返した。それきり振り返らず、馬を引かれるまでまっすぐに歩いていった。

 

「結局、安族とは敵ですか?味方ですか?」
スジニの問いに、馬上の太王は目を閉じた。緋色の衣が脳裏の暗闇を鮮やかに舞う。そこにもうひとつ、揃いの衣の白い顔が重なった。
 「そういうふうに分けられない者だ」
太王は手綱を緩め、愛馬を好きに駆けさせた。いつも自分の兵にかける言葉に初めて躊躇い、飲み込んだそれを噛み締めるように顎がかすかに強張った。
 —死ぬな。生きて戻れ—
王権の裏の闇に生きてきた者たちが、穏やかに身を隠すよう。心にかけ始めたばかりだというのに、すぐに命を落とさぬよう。太王は一心に野を駆けた。そのまま陣へ戻ると、異国の盟友たちに言葉少なに語った。
 安氏から帯方を譲り受けたと。

 

***

 

在位わずか四年、慕容盛は軍の謀反によって殺された。すぐに丁太后によって慕容熙が即位、王に手を掛けたとして段氏という軍人を誅殺した。
 国境に大規模な陣を築き、年をまたいで前線を固めていた高句麗軍は、政変の直前に遼東城を攻め落とした。慕容盛の最後の命令は遼東の奪回であったといわれる。王の死因を繰り返し探らせた太王にも、ことの詳細は不明のままだった。
 安談徳の名は、太王と会見して以来、それっきり表舞台から消えた。安族そのものが地に飲まれたように消えてしまったのだ。ソドクの名は一度も世に聞かれることはなかった。

 好太王の戦歴に、遼東の領有について明確な記述はない。

 

(了)

 
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