屋根裏部屋
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遼東にて

3 宴-3

 太王とスジニの視線を捉えたまま黙りこくって酒を啜っていた安氏は、不意に杯を置いて俯くと眉間を強く押さえた。刺すような弟の視線に煩そうに手を振ると、白く血の気が引くほど力の入った指で額を揉むようにし、それからようやく頭を起こした。
 「朱雀将軍、見事な腕のようだが、あいにくあまり目が利かないのでな。」
眉を顰めて掴んだ酒器を弟が取り上げた。兄はそれに逆らわず、目を瞑って頭を振ると、仰け反るように座り直して割れた扇を弄びはじめた。
 「慕容盛には人望がない。北魏にいい顔をして先の戦で大敗したくせに、内政を絞り上げている。馬も兵も足りぬまま再建できない軍は苛ついて、いつ何が起こってもおかしくない。」
 王を呼び捨てる口調にスジニは驚いた。てっきり子飼いの豪族と思っていたが、どうやら思い違いのようだ。太王が杯を空けたので、スジニは弓を持ったまま片手で酌をした。慌てた侍従が酒器に手を伸ばしたが、そのまま背後に下がらせた。安氏は空を見つめて薄笑いを浮かべたまま言葉を継いだ。
 「後燕のことはよくご存知だろう。王になるには王を殺す。慕容氏のお家芸だ。」
むろん、太王はよく知っていた。まず慕容垂が病死し、継いだ太子の慕容宝も二年足らずで殺された。その後王位についたのが現王の慕容盛、すべてがたかだか四年ほどの間のことだ。
 「慕容垂は北魏攻めの最中に死んだ。陣中で病死とは、実に不自然ではないか?」
まるで愉快なことのように声を上げたが、最後には吐き出すような口調になった。話が急に過去へ飛び、一体どう転がるのかと、太王は眼帯の男の言葉を待った。
 「北魏と後燕はすぐに講和し、揃ってわれらに領地を与えた。誰にとってもさぞ不思議だったろうよ」
 暗い瞳が自虐的に笑った。躊躇いながらも咎めるような声が挟まった。
 「おい、兄者—」
 「慕容垂を陣から降ろした報償だ。」
杯を弄んでいた太王の手が止まった。スジニは思わず声に出して呟いた。
 「…お前が殺したというのか」
たしかに隙はないが、戦場で王の寝首を掻くようにはとうてい見えない。どころか鎧姿さえ想像できぬ男だ。そんなスジニの考えを見透かしたように、隻眼の男は笑った。
 「将軍のように勇ましいやり方ではないわ。毒と隠し刃、閨の闇が我らの武器だ。」
毒と聞いて、スジニは反射的に太王の杯をもぎ取った。睨みつけるスジニの剣幕に、安タムドクは呆れたように笑った。
 「今更そう気色ばむな。何も入れぬと言ったろう。」
杯をなくした太王は、誰も手をつけない膳から皿を取って自分で注いだ。平たい皿から器用に飲み干すと、変わらない声で尋ねた。
 「もう少し待つとどうなる」
 青年が苛々と頭を振った。梨を取り上げて白い歯を当てる。しゃり、と硬く粒立った音がした。
 「太后から呼ばれている。じきにまた王が代わるだろう。」
食いしばったスジニの顎の線がこくりと動いた。慕容垂には子が多かった。まだ一人、末子が残っている。太后は王を取り替えるつもりか。またしてもこの蠍のような一族を使って?
 「変事の際にはここは空だ。ここから攻め入ればよい。」
皿の縁を弄びながら、太王はゆっくりと首を回した。
 「いつどのようにするかはわたしが決める。」
しゃり、とまた音がして、歯形の残る梨が地面に叩き付けられて転がった。
 「こうして教えてやっているというのに!この地が欲しいのだろう!素直に従えばよい!兄者も兄者だ!過ぎた事までなぜ話す!」
白い顔に血の色が差している。紅を掃いたように瞼を染め、転がった梨を蹴り付け、兄の卓にどしんと腰を下ろした。突き刺さったままの矢にますます苛立ったが、抜こうにも折ろうにも、青年の手ではびくとも動かない。太王が立ち上がり、その背をスジニが慌てて追った。弟は弾かれたように腰を上げたが兄は動かない。首領の眼前で矢を掴んで一息に抜くと、太王は矢を後ろ手に突き出してスジニに返した。
 「何をしようとしている。お前たちの望みは何だ」
太王が見下ろす前で、安氏は手を伸ばして酒器を取り上げ、杯を満たして俯くようにゆっくりと口をつけた。卓上の一点に目を据えるように見えたが、その目は何も映していなかった。
 「後燕を終わらせる。次の王、あの末子で慕容氏は終わる。」
何気ない口調で呪いを吐いた。太王の目がわずかに細められた。
 「太王よ、わかっているはずだ。後燕はもう保たぬ。それを早めてやろうと思ってな」

 

 慕容垂の毒殺を命じたのは誰だと思う?そうだ、慕容宝、実の息子だ。戦をやめたい北魏と王位が欲しい太子が通じたというわけだ。わたしに白羽の矢が立ったのは、どちらの閨にも出入りしていたからさ。太陽のような王には想像もつくまい。閨に侍り、密命を受け、暗闇で屠る。それがわが一族の生業だ。腐った水のように、臭う秘密は漏れ広がるものだ。わたしを捕らえた軍は当の慕容宝を同じ手で殺せと命じた。疑われ、いたぶられて片目をなくしたが、結局あいつを殺した。親子ふたりとも、絹の褥の上で、素っ裸で。その時軍が狙い、しくじった庶子が今の王だ。あいつはわたしを侍らせて毒味役に使うことを思いついた。
 こちらもそろそろ身が保たんのだ。
 もう、じきに見えなくなる。

 

 スジニは太王の広い背を見ながら凍りついたように立っていた。かつて後燕の高氏のもとに身を寄せたことがある。後燕王は太子たちに兵を持つことを禁じ、煽るように競わせて生き残りを選んだ。太王もまた、それを間近で見た。
 「遼東を取りに来たのだろう?ならばそうすればよい」
 「そしてお前たちはこの地に潜み、次の王も暗闇で殺すのか」
安氏の隻眼が笑いに細く弧を描いた。
 「見て見ぬ振りをしてくれればそれでいい。後燕が倒れるのをただ見物していればよいだろう?」
 「勝手にしろ。高句麗が遼東に入ればお前たちにはさぞ好都合だろうが、その時期はわたしが決める。内紛を待つとは限らないということだ。慕容氏と心中したければそうするがいい。」
 くるりと背を向けた太王の後ろで、かたんと音がして杯が卓を打った。立ち上がった安氏をまた振り返り、太王の足が止まった。スジニが素早く前に出て身体をかぶせる。はじめて言葉を失った安氏のもどかしげな様子に、太王はうっすら微笑んだ。
 「お前が倒れれば、弟が同じことをするのか。一族の行く末を決めるのはお前だ。タムドク。」
 「黙れ!何もしらぬくせに!」
青年の絶叫が響いた。

 
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