屋根裏部屋
space
space
 <--TOP PAGE 遼東にて <- Back   Next ->  
space space space space
line
space space space space
  1-1・・1-2・・1-3・・2-1・・2-2・・2-3・・3-1・・3-2・・3-3・・4(了)  
space space space
遼東にて

3 宴-2

 青年が屈み込んで安氏に何やら囁く。すぐに扇が渡された。身を翻して音もなく歩き、青年は挑むように微笑んだままするすると離れていった。三十間。さらに下がる。三十五、六間はあろうかというところでようやく足が止まった。
 腕が上げられ、長い袖を垂らしてまっすぐ水平に止まった。その先には美しい透かし彫りの扇。下げられた紫の糸房がゆったりと揺れている。
 安氏は軽く眉をしかめ、一切の力みなく引き絞られた弓を見つめていた。ぴったりと太王の背に張りついて動かなかったスジニは、こうなってようやく主の側を離れた。すっきりと胸を張り、大きく脚を開いて構えた女将軍の上着の裾がふわりとなびく。膝上まで覆う長靴の美しい曲線がのぞいた。
 芸妓も小姓も、水を打ったように静まり返った。
 何の前触れもなかった。スジニはあっさりと矢を放したように見えた。矢は一直線に飛び、飴色に磨き上げた硬木の美しい細工をまっぷたつに割った。硬いものを弾き飛ばされた衝撃は思いのほか大きく、痺れた腕を振り上げた青年の顔から笑いが消えた。幕を突き抜けた矢が背後の若木に固い音を立てる。
 タン!
 喝采が湧き起った。遠く控える高句麗の兵が足を踏み鳴らしている。芸妓も小姓も声を失い、白い顔にかろうじて笑みを張り付けていた。
 「次はお望みのものを」
 ただ一人的のほうへ顔を向けず、安氏は表情を変えずに酒を啜っていた。騒ぎの中でようやく杯を置くと、扇のない手持ち無沙汰のせいか、気怠く頬杖をついた。
 「このあたりはよい梨が採れるそうな。太王陛下は、梨はいかがか。好まれますか。」
その青年が戻った。命中の証のように割れた扇を差し出したが、安氏は扇ではなく白い手にじっと目を落とした。撫でるようにして扇の片割れを握らせる。もう片割れを手に、中央の卓に盛り上げた梨を指した。青年が鉢を取り上げると、差し上げろというように扇が舞った。うやうやしく差し出された山盛りの梨に、訝しそうな太王の視線が向けられた。
 「弟だ」
スジニのほうがはっとした。みな似通った顔立ちだが、そう聞けば同じ目をしている。首領の弟だという男がじっと捧げ持った鉢から、太王がひとつ、梨を取った。
 「それを」
安氏がスジニに向き直った。
 「太王陛下の掌の梨を射てもらおう」
 「なっ…」
なんという男だ。自分の王に矢を向けろというのか。弟を的にした報復か。自分の軽々しい失態に、スジニは唇を噛んだ。
 「そうさな、あの樹のあたりから狙えば具合がよかろう」
扇が指したのは、四、五十間はゆうに離れたあたりだ。察した近衛兵から呟きが漏れた。無礼者—。高句麗兵からだんだんと殺気じみたものが滲んでくる。
 ふっと小さな笑いが張りつめた空気を揺らした。太王だ。スジニの視線を捉え、王はもう一度不敵に笑った。
 「遠慮するな」
スジニの瞳が爛と輝いた。さらに小さく頷かれて肝が据わった。
 「ああ、それでは高句麗の弓矢に替えなければ。この弓では届くか怪しいものだ」
近衛隊がほっと息をつく。不安まじりに笑いさえ漏れる中をジンシクが走った。スジニの愛弓を渡す手がかすかに震えている。
 「酒を」
短い言葉に、芸妓がつんのめるように酒器を差し出した。手近な杯に受けたスジニは、それをそのまま震える侍従に突きつけた。
 「一杯飲んで落ち着け」
ぽんぽんと肩を叩く。陛下のお側にいろ、そう耳元で囁いた。それから踵を返すと、自分の矢筒を背負いながらすたすたと離れていった。

 

歩数からして四十五間。指先を舐めて空にかざす。
 無風に近い晴天の昼間だ。太王の背後は衝立、色は赤。
 ゆっくりと間合いをとるスジニを遠く見ながら、太王は卓上で梨を転がしていた。
 「いかにも、梨は好きだな。遼東の王にもひとつ差し上げてくれ」
どうにか震えを紛らわした太王の侍従は、内心首を傾げながら大鉢を安氏に差し出した。まるでそこに居ない者のように無視されて、迷った挙げ句、侍従は鉢からひとつを取り上げて遠慮がちに卓の端に載せた。首尾を伺うような視線に、主は頷いて満足そうに微笑んだ。
 遠目にもきりきりと音がするようだ。スジニが弦を絞り始めるのと同時に、太王は無造作に梨を取り上げて立った。掌に載せ、すっと腕が伸ばされる。赤い衝立の前で梨と白い手はくっきりと際立った。
 腕が伸びきった瞬間。
 鋭い風切音に、ジンシクは思わず固く目を閉じた。
 矢は正確に果実の中心を捉えていた。
 タン!と鋭い音。
 侍従が目を開いたとき、梨は衝立に打ち付けられて砕け落ちた。
 間髪を入れず二本目が、ふたつめの梨の中心を射抜いた。
 すなわち、安氏タムドクの卓上、袖先から一尺にも満たないところに矢が射込まれ、深紅の袖に白い果肉が無惨に飛び散っていた。
 ざわめきが起こった。小姓も芸妓も、首領兄弟をのぞいた全員が、一瞬にして殺気を帯び、鋭く身構える。安氏はゆっくりと腕を上げて扇をかざした。
 「馬鹿者。場をわきまえろ」
 もはや取り繕うこともせず、艶やかな一行は油断のない目つきで幕を割って消えた。気配を消してはいるが、背後に控えているのだろう。
 「そうまでして化けずともよかろう」
 呆れたような太王の言葉をよそに、安氏は自ら酒を注いだ。小振りな杯を一息に干すと、弟が酒器を取り上げた。酌でもするのかと見えたが、仰向いて直に自分の喉に流し込む。ふん、と呆れたような息を吐き、兄の片頬に暗い笑みが広がった。
 「あれもわが一族の生業だ。芸を売り、色も売る…」
顔を上げた安氏はそこで言葉を切った。スジニが大股に歩いてくる。鈍青の絹が艶やかに翻った。体を回した太王が微笑み、それを受けた女将軍は拳で二度、胸を叩いて笑った。
 大国を統べながら無邪気なほど人を信じる。冷徹な知略ばかり聞こえてくるが、面と向かえば民のために本気で怒っている。一握りの騎馬隊を率いて敵の鼻先を駆け回ったかと思えば、また新しい異国の友を得たという。
 「王に生まれついた者もいるというわけだ」
皮肉な口調の低い独白を、その弟だけが聞いていた。太王が掌を広げてスジニに示す。そこには傷ひとつなかった。溶けるような目で寵妃を迎えた太王は、今にもくしゃくしゃと頭を撫でんばかりだった。
 —妃さえ盟友か。
 崩れるように肘をついて座った兄の傍らに、弟が影のように立った。
 「高句麗王よ。遼東を取るのならば、もう少し待つことだ。」
 ふたりは同時に顔を上げた。深紅の衣の兄弟は、あの独特の気配に包まれて太王と将軍を見つめていた。

 
space
 
space
    <- Back   Next ->  
space
line
space space space space
 <--TOP PAGE 1-1・・1-2・・1-3・・2-1・・2-2・・2-3・・3-1・・3-2・・3-3・・4(了)  
 
  space  
line
  space  
  Copyright © kuro-kmd. All Rights Reserved. since 2010.  
  space