屋根裏部屋
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遼東にて

3 宴-1

 書状は仰々しい美文だったが、必要なことは端的に盛られていた。野に幕を巡らして川風を楽しむというので招きに応じたのだ。——太王が城門をくぐることはない。一行は高塀に囲まれた建物の脇を素通りした。ちらちらとのぞく軒先の豪奢な彫刻に、スジニが呆れ顔で呟いた。
 「これは離宮というのでは?」
 「かろうじて防塁の形をしているから、山城にあれこれ手を加えたんだろう」
 城を過ぎて間もなく、眼前に草原が開けた。涼やかに風が抜け、先導する若者の袖が音をたててはためく。向こう岸が間近に迫る、穏やかな川べりだった。
 風除けに赤い幕が張り巡らされ、屏風が立てられ、いくつかの薄物の天幕が蔭を作っている。遠目にもほっそりと白い顔の若者たちが、揃いの衣を翻して立ち働いていた。近衛兵たちは守りの位置を確かめながら、狐につままれたような顔で小姓たちをちらちらと見ている。風に乗って笛の音が細く響いてきた。
 こいつらは本当に軍を持たず、争いごととは無縁なのだろうか。周り中戦だらけで、いつ国境が動くかわからない日々のはずなのに。
 優雅な貴人好みのいちいちが鼻につき、スジニはますます苛ついた。

 

馬を下りて従う案内の背の先に、ゆるやかに舞う姿があった。深紅の袖先が風にはためき、しなやかに扇を返す。やはりこの間の使者と同じだ。妙な気に満ちて隙がない。ちらりと走らせたスジニの視線に、太王が頷いた。ふたりの凝視を感じたのか、続く笛の音を置いたまま、流れるような動きはふっつりと止まった。舞い手は気のない様子であっさり振り向いた。
 真っ白な顔の左目を覆う黒い眼帯。それがすべての視線を集める間に、ほんの数歩で歩き方が気怠く崩れ、張りつめたような気配が消された。それに気がついたのはふたりだけだった。
 「高句麗の太王陛下。安族の首領にて遼東と帯方の王でございます。」
従者の長閑な声が宣った。
 「安談徳<タムドク>だ。」
続けて名乗る声に、太王の頬がかすかに動いた。
 「わたしのほうがほんの少しだが年長らしい。先についた名だ、どうか許されよ。」
向き合って数歩の距離に立つふたりの口の端が、同時に少し持ち上がった。
 太王は全身黒づくめ。普段に着ている軽い軍装だが、黒地に黒糸の縫い取り刺繍も、黒革の胴着に浮かした文様も、職人技の粋を集めたものだ。金細工の冠に嵌った青緑の玉が、真夏の陽射しにうすく灼け、小麦色に光る肌に映えた。今にも微笑みそうな口元は軽く結ばれ、深い光をたたえた瞳と相まって、太王の全身に穏やかな活力を行き渡らせていた。
 向き合った安氏タムドクは抜けるような白い肌。黒い革の眼帯が、傷ひとつない顔にはいかにも不似合いだ。隻眼は涼しく鋭いが、退廃の影が差している。太王にわずかに及ばない長身は引き締まった鞭のようだが、それをゆったりとした深紅の衣に隠していた。物憂げな立ち居振る舞いはとことん優雅だが、どことなく投げやりにも見える。端正だが臈長けたといってもいい。尖ったような暗い美貌の持ち主だった。
 ふ。もうひとりのタムドクが笑った。
 「契丹には視察にいらしたとか。ずいぶん仲がよろしくていらっしゃる。」
 「こうして時々馬の出来を見せてもらう。北の地は夏に訪れるに限る。」
 「西から東へやってきた客人もあったそうだが」
無遠慮な探りにも、太王の表情は一切変わらなかった。安氏の問いを無視して言葉が続いた。
 「西国の血が入るのか、契丹の馬は大柄で腰高なものが多い。荷馬にも向くようだな。」
 沈黙と、かすかな微笑み。
 「御酒でもお勧めせよ。」
従者に言いつけると、裾を翻して先に立ち、宴席へと太王を誘った。

 

 小姓に混じって肌も露な薄衣の芸妓がわらわらと座につく。手持ち無沙汰に笑みをつくる者らを侍らせ、安氏タムドクが杯を掲げた。少し離れた上座で太王が向き合う。椅子は二脚並んでいたが、朱雀将軍はぴたりと直立して王の背後を離れない。芸妓が注いだ杯にスジニが手を伸ばしたが、誰にも毒味をさせない太王は卓上を滑らせて渡そうとしなかった。投げやりな呟きが届いた。
 「何も入れませんぞ」
太王が苦笑し、杯を取り上げると一気に干した。幕の向こうではるか下手に控えたコムル人が、そわそわと爪先立って覗き込む。スジニは悲鳴を上げる寸前だった。
 「結構な香りだ」
すぐにまた杯が満たされる。鼻先に杯を掲げて目を細める姿に、暗い眼差しが注がれた。
 「いつも帯方が世話になっておりますな」
太王は安氏をまっすぐに見据えた。
 「百済や倭の略奪が相次ぐ地だ。民は税で喘いでいる。」
 「税は北魏皇帝と後燕王が決められたものだ。」
 「なるほど。二重に取る訳か。そこに貴公の取り分が入れば、民の口には何も残らないはずだな。」
安氏は黙って肩をすくめてみせた。
 「わたしは任じられた王だ。お忘れなきように。」
 「肝に銘じよう」
氷のような炎が太王の瞳に浮かんだ。そのまま口元だけが微笑む。刺すような気配は芸妓の手を震えさせ、酒器がカチカチと音を立てた。
 「朱雀将軍、よくお似合いだが、どうやら半分しかお気に召さなかったようだ。太王陛下の衣に色を沿わせたが、残念だな。」
安氏は薄く笑ってふたりを眺めた。淡黄の絹衣だと聞いた太王は黒革の軍装、太王妃は鈍青の上衣の上に、これも黒革の胸当てと弓懸けをつけている。
 「せっかくの頂き物だが、将軍は裳をつけると働きに障りがあるそうだ」
普段着への嫌みを黙殺し、太王は震える芸妓の酌を受けた。
 「新羅辺りでは優美な音曲が盛んだが、お国ではどうかな。美しい将軍にひと差し所望—」
扇が優雅に返ってスジニを指した。
 「わたしの妃は芸妓ではない」
穏やかに、しかしよく通る低い声がぴしゃりと叩き付けられた。スジニが一歩踏み出す。太王は一寸も顔を動かさずに杯を差し出し、美しい絹の袖が、一息に飲み干した口元をぐいとぬぐった。
 「あいにく舞はできないから、他の余興をお見せしよう。弓をお借りしたい。われらの弓では飛びすぎて危ないので。」
弓矢と聞いても動じず、安氏は鷹揚に頷いた。幕を割り、これも深紅の衣の青年が、矢筒と小ぶりな弓を持ち込んだ。弓筒を受け取りながら、スジニはその顔を凝視して呟いた。
 「お前。首領の扇を持ってそこに立て」
今度こそ、それは太王の名を面前で口にした使者だった。青年の顔にゆっくりと笑みが広がった。

 
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