屋根裏部屋
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遼東にて

2 ふたりのタムドク-2

 久方ぶりに自分の諱(いみな)を聞いて、太王はくくっと短い笑い声を漏らした。同時にスジニが飛び出し、青年の白い喉元を剣の柄で押えつけた。
 「この…無礼者」
白い喉を反らし、下目使いにスジニを見る視線に揺るぎはない。
 —こいつ、やはりただの小姓なんかじゃない。
今にも男の首を折りそうな勢いでのしかかり、息がかかりそうな距離で鋭く睨めつけるスジニを、太王の快活な声が嗜めた。
 「こら、やめないか。わたしが命じたんだ。それに口には出したが呼びかけたわけじゃないぞ」
 「それでもいけません!」
 「そんなものは下ろせ。ちょっと聞いてみたかったんだ」
スジニもコムル人も、場の高句麗人がみな揃って溜め息を吐いた。今では王の名の一字を書くことさえ禁じる国があるというのに、王の返答はあまりにも軽い。真の名を呼ぶことはその人を支配するのだ。先王も生母も亡い今、太王を諱で呼ぶ者などこの世にはいない。気が抜けたように剣を下して離れたスジニは、じっと青年から目を離さなかった。
 何事もなかったかのようにまた目を伏せている。斬り捨てられようかという時に身じろぎもせず、こちらと目を合わせていた。こいつの気は一体何だ?
 
 突厥人だけがことの次第から取り残されてぽかんと口を開いていた。ようやく気がついた通訳が小声で口早に耳打ちすると、ああ、と丸い手が膝を打った。
 「それでわかりました。おかしな話を聞いたことがあります。」
 高句麗の王は、北魏によって領土を与えられた王だと信じる部族があるという。鮮卑族に近しい者の言うことだからと聞き流していたが、よもやその者と高句麗王を混同しているのではないか?たしか安族の者は、遼東をふたりの皇帝から与えられたと?
 突厥の言葉が終わるのと同時に通訳が早口で話し終え、聞き終わるやスジニが声を荒げた。
 「なんという侮辱!こんなこと許しておけません!」
 「なにが許せないんだ。同じ名を持つことか?」
たしかにちょっと妙な気分だ。そう呟きながら口元にまだ笑みの残る太王は、使者へと視線を戻した。
 「高句麗気質とでもいうのか、まあ、こういうやつでな。手荒なことをして済まない。」
 小さく頭を下げる青年に柔らかな言葉をかけながら、太王はスジニと同じ一瞥を投げた。王もまた、得体の知れない気配を感じていた。
 「安タムドクに伝えろ」

 書記の筆が動き始めた。構えて言葉を待つ。
 「諾、と」
書記は続きを待ったが言葉はそれで終りだった。戸惑いながらも筆を置き、太王の印を押す。横顔を伺うが、やはりそれきりだった。たった一文字を記した紙が侍従に渡されると、確かめることもなく、太王が頷いた。
 「持ち帰れ。ご苦労だった。」
侍従は今日二巻めの書状を包み、一文字とはいえ同じように丁寧に紐を掛けた。それを待つ間、スジニは改めて使者に目を注いだ。間近で見た手指は白く細くたおやかで、武術者のそれではない。注がれる視線に応えるように、青年は横目でスジニを見ると微かに口の端で笑った。驚いて剣の柄を握ったとき、侍従が箱を捧げ持ち、スジニの視界に割って入った。そのまま目線が合うことはなく、深々と礼をして書状を掲げた安族の使者は、するりと天幕を出て行った。

 眉根を寄せて白い残像を見送っていたスジニは、戸惑ったようなアティラの言葉でようやく我に返った。
 「一体なんの書状だ。何に対する諾の返事だ?」
 「まったく!どうして了承するのですか!呼びつけられて行くなど、向こうが来ればよいのです!」
まくしたてるスジニの剣幕に、口火を切ったアティラは黙ってしまった。張り付いた通訳に逐一を耳打ちされながら、ユイグルは愉快そうにことの成り行きを見守っている。

 「安族の宴に招待された。ここから近い山城だ。われらの脚なら一日だな。」
名を呼ばれてからというもの、太王は悪戯っぽい笑いを浮かべたままだった。
 「招待?」
避暑といい宴といい、果ては典雅な小姓といい、一体どうなっているのか。契丹人は頭を抱え、突厥人は王と同じ類いの笑いを浮かべている。
 「いいじゃないか。せっかくの機会だ。誰もはっきり見たことがない安族に会えるというのだから」
 「われわれに戦の用意はありません!」
 「戦ではない、将軍。宴だ。それにもう返事をした。三日後だ。」
 「三日!」
スジニの悲鳴のような声に、天幕の外がざわめき始めた。
 「お前の兵を鎮めて来い。わかったな、三日後に遼東に入る。」
念を押すように言うと、椅子に沈み込んで笑っている。ぷりぷりと出て行くスジニの後ろ姿をユイグルの目が追った。
 「なかなかはっきりものを言う女傑だ。それに喧嘩っ早い。」
 「太王妃だ」
ぼそりとアティラが呟く。通訳なしで通じたユイグルが今度は吹き出した。
 「これは失礼を…。ははあ…そうか」
太王が声を上げて笑い、侍従を手招きした。地図を命じられたジンシクが、三人の足元、虎の毛皮の上に巻物を広げた。

 

「契丹兵は百しかいないし、突厥人を関わらせるわけにはいきません。合わせて三百ですよ、三百!たった!」
 突厥式の心地よい寝床に転がってもなお、スジニの繰り言は止まらなかった。ふて腐れたように大の字になって宙を睨んでいる。
 「あれはただの小姓なんかじゃありません」
 「それも行けばわかる」
不服そうに返事をしないスジニの胸には、優男の奇妙な気が小骨のようにひっかかっていた。
 「知らせが来たぞ。やはり後燕はこのことを知らない。安タムドクが連れているのはせいぜい三百。念のため契丹兵が国境に詰める。ご苦労なことだがアティラがもう発った。そちらは五百。我らは最速の脚、最速の連絡術をもった最強の軍隊だ。どうだ、何が不満だ。」
もう一人のタムドクの名を口に出した途端、太王はまた笑った。
 「やはり妙な気分だな」
 「王様、同じ名の男に会いたいだけなんじゃありませんか?」
 「お前はどうだ、顔を拝んでみたくはないか。もうひとりのタムドクの」
 「さあ、それは」
不意に瞳が輝いた。予感がしたが、遅かった。くるりと返した身体が被さって、大の字になっていたスジニはあっけなく組み伏せられた。どうもがいても、固い腕は金輪際緩まない。
 「わたしの名を呼んでみろ。タムドク、と」
 「そんなことはできませ—」
拒んだ語尾は、合わせた唇に吸い込まれていった。王様はあらゆることから自由すぎるのだ。続く繰り言もまた、早々に吐息に埋もれた。

 
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