屋根裏部屋
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 頼みがある。高句麗の太王がそんな言い方をする時、スジニは用心するようにしている。近衛隊長になってからの「頼み」は、主にスジニとの時間を捻出するために使われたので、物陰に引きずり込まれないように用心したり、人目を避けるのに神経を使ったりするのである。王はそうやってスジニを困らせるのが趣味のようであったから、実に気が抜けない。スジニの方もこの戯れにだいぶ慣れてきて、おいそれとはひっかからないので、王の知恵の巡らし方も半端ではなかった。
 「なんでしょう。」
スジニは用心深く答え、変わったところがないかと、これ見よがしにしげしげ観察した。衿の詰まった紺青の上衣、黒地黒糸の刺繍の上着を羽織った王は常と変わりなく見えるが、「頼み」という一物を胸に仕舞っている。警戒が必要だ。
 「そんなに構えるな。ちょっと城下に出たい。」
なんだ、久しぶりの正しい「頼み」じゃないかとスジニはほっとした。
 「いつでしょう?馬の支度でよろしいですか?馬車になさいますか?」
 「いや、歩きだ。今日これから。」
スジニの口が開いたまま、言葉が止まった。
 「供はなるべく少なく。要するにお前だけだ。」
 「…お忍びですか。」
 「完全に、そうしたいな。できれば夜まで。太子宮から塀を越えるぞ。どうした?」
 「コ将軍ならこんなときどうされるのかと考えていたんです。」
にんまりと王が笑った。いつもの、悪戯を思いついたような顔だ。
 「コ将軍にはこんなことは言わずに黙って行く。」
 「わたしにも黙って行ってくだされば悩まずにすみますが、黙ってお一人で行かれるのも心配です。」
 「心配するようなことがあるのか。わたしの城下だぞ。お前を撒けないから一緒に行こうと誘ってるんだ。」
遊びのように誘われて、近衛隊長は苦笑いした。共犯として抱き込まれたわけだ。久しぶりの街もいいかと、平時をありがたく思いながらスジニは王に頷いた。
 「わかりました。お供します。軍資金が必要ですか?」
 「いや、お前とわたしの酒代があればいい。」
楽しげに笑うと、王は書記たちに留守中の宿題を与えに去って行った。多忙な王がただぶらぶらと遊びに出るわけがない。何が目的だろうかと、スジニはあれこれ考えながら、こちらも王の居室を出た。

 

 太子宮の塀に沿って、スジニが歩いてきた。粗末な粗い土色の上衣に革の胴着、草臥れた鹿革の長靴を履いている。長靴と懐に短剣を忍ばせていた。その後ろに、壁際から近づいた影がひとつ、さりげなく尾いた。藍色が褪めた上下に膝まである粗い織の灰色の上着、髪をざんばらに乱して縛った長駆。
 小さな影がしなやかな若木の枝を掴み、塀を駆け上ったように見えた。灰色の影が続いた。ふたつの影はあっという間に宮から消えた。

 「隊長がグルだと衛兵をどけておいてくれるから楽だな。」
王は髪をかき上げて結わえ直した。冠のない姿は久しぶりだが、粗末な服に髭が馴染まない。
 「もう貴族のボンボンでは通りませんね。なんというか—正体不明です。」
 「そういうお前はきっと獲物を売りにきたヘッポコ猟師だな。」
スジニも長い黒髪が身なりから浮いている。王は過ぎた時間を懐かしく思った。
 平時が続き、国内城は穏やかだった。太王が整備した商路を通って品々が活発に行き来し、市場は盛況をみせていた。ぎっしりと店が建ち並び、人々は商いに集まっていた。
 喧噪のまっただ中の飯屋に座り込んで、王はちびちびと酒を舐めていた。のんびりと座ってしばらく動きそうにない。
 「あれ様、今日はどちらへ?」
 「どこへも行かない。ここが目的だ。」
首を傾げるスジニに王は笑って答えた。
 「ただ聞いているのさ。」
隣の卓では商人とおぼしき二人連れが、塩の相場について延々愚痴をこぼしている。立ち話をしているおかみさんたちは、人が増えすぎた、買い物が大変だとぼやき、通りかかる商店主たちは店を出すのに保証金が高いとぼやく。やくざな連中に大枚払わなきゃならない、汚い商売だ、今にみてろと息巻いている。スジニがそちらに顔を上げ、いいのですかと目で聞くが、王は微笑んで耳を澄ましたままだ。
 「水が清すぎると魚は住めないって、お前もよく知っているだろう?」
そうして王は、日が暮れても座ったままで、夜の住人たちの言うこともにこにこと聞いていた。

 

 「何のお忍びだったか伺ってもよろしいですか?」
塀の手前でスジニは聞いた。
 「都を拡張しようと思っている。まず市場を広げてやろう。」
王は先にひらりと塀を越えた。合点がいったスジニもひらりと飛んで、塀の上に月だけが残った。

 

(了)

 
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