屋根裏部屋
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 久しぶりの親征だった。国境で山城をいくつか落とすという小さな戦だったが、太王を戴いた軍は士気が上がって猛攻をかけ、常より早く陥落させた。帰路にあってもなお興奮気味である。陛下とともに戦った、それが将軍から一兵卒にまで誇りとなり、帰属意識と忠誠心が高まる。もしかするとそれこそが、太王が直に出向く理由なのかもしれなかったが、ただ静かに微笑んで馬上にある王の心は誰にも読めなかった。
 「なんだかんだ言って、王様はご自分で出るのがお好きだからなあ。なんだって直にやっちまうんだから」
わざと呆れたような声を作ってチュムチが言う。国内城まであと五日ほどの距離だ。戦勝の軍を帰路にあたる村々は歓迎し、それがさらに兵を活気づけた。帰路の野営地では、疲れを見せない兵たちが飯にありつこうとにぎやかに声をあげ、急ごしらえの竃からもくもくと煙が上がっていた。汁の匂いが漂い、チュムチの腹が鳴ると勺を持ったタルビが笑う。夏真っ盛りで、あちらこちらで腰を下ろした兵たちが、汗を拭いながら配られた汁を掻き込んでいた。
 兵たちに混じって座り込んだチュムチは鎧を着けておらず、王も紋章を刻んだ鋼の胸当てという軽装だ。王が気軽に兵に混じって飯を共にするのはいつものことだが、チュムチはただタルビの側にくっ付いているので、それを微笑ましく見ながらからかっていたところだった。すでに戦場は遠く、陣はのんびりしたものだ。小さな木立が点在する窪地は見晴らしがよく、水場にも恵まれた格好の野営地だった。
 王があたりを見回し、もの言いたげに口を開いたところへ、チュムチが素っ気なく言葉を被せた。
 「メシだってのに、あいつはどこへ行った?間合いの悪いやつだ。喰いはぐれるぞ。」
笑いながらタルビが言う。
 「スジニ、いえ朱雀将軍は沐浴じゃないでしょうか、髪を洗いたいとおっしゃってましたから。」
スジニはどんなところでも素早く沐浴を済ませる名人だった。土埃にまみれた行軍で、いつも一人だけこざっぱりとしている。
 「あいつの腕っぷしなら一人でふらっとどこにでも行けるからなあ。それに恐ろしくて誰も覗かん。どんな目に遭わされるか…いや」
チュムチが横目で王の顔を伺い、言葉は尻すぼまりに消えていった。黄昏の中、俯いて苦笑する王の歯が白い。タルビに渡された丼にチュムチが食らいつく間に、王はぶらぶらとその場を離れた。ひとりの近衛兵が気づき、離れて後を追う。王は護衛をさして気にもしない様子で、小川とも呼べないような、水の流れる小さな窪みに沿って、ゆっくりと歩を運んだ。

 

 設えたような岩場だった。木立に囲まれた泉は湧き水が溜まる窪みを大きな岩が囲み、水を求める小さな灌木が腰ほどの高さに茂っている。ほどよい湿り気に囲まれた木の幹に、ちいさな緑色の蘭が垂れていたのを何気なく摘んで、王は足音を立てずに岩から岩へと軽い足取りで入って行く。
 手拭が二三枚、灌木の枝に広げて掛けられ、その横に長い軍靴がくたりと置かれていた。適当に脱ぎ捨てたように見える衣類は、着る順番に重ねられている。水に一番近い岩の上に、弓と矢筒、抜き身の短刀が置かれているのを見て王がにやりと笑った。油断していないらしい。
 ちょうど昇ってきた月が樹々を抜けて、辺りを銀色に照らした。ぱしゃ、と水音がする。肩口に水を撥ねかけたスジニが、そのまま両腕で胸を抱き、水の中に立っていた。濡れて貼り付いた薄衣がくっきりと身体の線を露にし、水滴をまとった肩の稜線がきらきらと銀色に輝く。滑らかな背中から腰の線が際立ち、背の窪みが黒く陰っていた。首を傾げて長い髪を水に落とすと、そのまま両手で揉むようにしながら肩まで水に沈んだ。
 背後でかすかに小枝を踏む音がする。ようやく近衛兵のことを思い出し、王は腕を上げて護衛を遠ざけた。お前にわたしの銀色の魚を見せるわけにはいかない。胸の中で呟いて、暗がりで艶っぽく片眉を上げる。その間ひとときも目を離さずにやがてゆったりと笑みが広がった。
 水の中で髪を梳くようにしていたスジニが頭を反らし、重たく水を含んだ髪が真っすぐに垂れる。そのままゆっくりと後ろに倒れ、仰向けになって水の上に上体が浮かんだ。薄衣から形のいい乳房が覗き、細い腰までが月光に蒼く晒される。美しい、いきもの。まるで人ではないようだと、不思議な光景に王は飽くことなく見とれた。悪戯っぽくぱしゃぱしゃと高い水音をたてて白い脚が動く。スジニは水面の月光を散らして遊んでいるようだった。やがてそれにも飽きてようやく身を起こすと、屈んだままそろそろと水面を動いた。

 

 灌木に広げられた手拭に白い手が伸びる。スジニは冷たい泉に腰まで浸かったまま髪を絞ると、滑らかな首筋から二の腕へ、手早く布を走らせた。手拭を取り替えながら水気を取り、くたくたと畳んだ胸帯に手を伸ばす。
 薄緑の小さな蘭が載っていた。スジニの目が丸くなり、素早く胸元を押さえたが、すぐにその口元に笑みが浮かんだ。瑞々しい蘭の茎から一粒の水が滴り、金色の笄に垂れている。月の光を集めて鈍く光る笄は、豪奢な彫刻が施された短い男物。それをしなやかな指が取り上げ、暗がりに笑い声が漏れた。王に覗かれるとは!なんてこと!それにしても、これでは帰り道で冠が落ちてしまうのじゃないだろうか。これを返しに来いとでも?
 スジニのくすくす笑いはしばらく銀色の水面を揺らしていた。冠を手に、王がぶらぶらと歩いて行く。どこからともなく近衛兵が現れて背後に従う。半月がくっきりと頭上にあった。

 

(了)

 
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