屋根裏部屋
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少年は丘を越えて

 百夜通えとふっかけて二晩目、艶やかな絹の枕の横で、一枝の花が萎れていた。軒近い部屋で、雨音がよく聞こえる。あちらこちら、少しだけ空けていた窓を侍女が閉めて回る音がした。
 雨。王は会議に籠り切りになり、近衛隊は早々に夜の警護番を残して散った。こんな日の軍人は暇なのだ。スジニは濡れた髪を拭きながら、こちらもびしょ濡れになって雫を垂らしている軍靴をようよう脱いだ。肌着から何からを取り替え、湯を使ってさっぱりするとじっと雨脚を見つめる。さきほどまで居た王宮で、息の詰まるような会議の中、溶け落ちる入り口の蝋燭を思い出していた。それを背に出てきたのだが、立ち去り際、目を閉じて考え込む王の端正な横顔を見つめた。
 ミヒの父、豪腕の政治家は一体どんな難題を持ちかけているのか、一昨日から王の側を離れ、ぷりぷりと怒っていたスジニは知る由もなかった。あの様子では夜を徹するかもしれないと、常の王を知るスジニは考える。一旦考えに取り憑かれると、王の頭脳は休まない。結局夜を徹しているのは王だけで、周り中が半ば眠っていることもしばしばあった。
 気がない様子で食事を摘み、ぶるっと震えて上着を探す。足首に届く豪奢な絹の部屋着を見つけ、苦笑して羽織った。すべてが女主人、妃の設えになっている。

 

 そのまま長椅子でうとうとしたらしい。湿った空気と人の気配で薄く目が開いた。雨粒をまとった王が立っている。手拭を受け取って侍女を下がらせると、髪を掻き上げて顔を拭い、それから肩口、腕、手を拭いて、寝ぼけ眼のスジニを見て笑った。
 「この季節、くるくると天気が変わるな。畑には恵みの雨だ。」
濡れた革の匂いがする。スジニが立ち上がろうとするのを手で制し、もう済んだと手拭を置いてみせた。
 「どうせまた濡れる」
しどけなく座ったまま見上げる視線を受け、くしゃくしゃと髪を撫でて微笑んだ。そのまま並んで腰を下ろし、目の前の皿に手を付ける。
 「今日は立て込んでいてな。ちょっと顔を見に来た。」
さりげなく言うが、要は会議を抜け出して百夜通いをしているのだ。嬉しいような申し訳ないような、きまりの悪い顔が少し赤らんだ。
 「また半端に食べて寝ていたな」
申し訳ありません、と返すはずが、先んじて塞がれて、スジニは黙るしかない。自分が言い出したわがままなのに、謝らせないようにしてくれている。なぜこんなに自分の心がわかるのかと、きゅうきゅう胸が痛んだ。

 

 濡れたような瞳が真っ向から王のそれを射た。ああ、射抜かれるとは、こういうことを言うんだろうな。意識の外で、手が伸びた。手が届くところに、柔らかな頬がある。真っ白い肌が掌に吸い付いた。
 眼前に迫った瞳が閉じるのを、王は残念に思う。濃い影を落とす睫毛を間近に見ながら、自分の瞳も勝手に閉じるのを感じた。やがて触れる、温かでやや湿った、柔らかな唇。熱をもって、甘い息を封じ込めている襞が、もの言いたげにともに開く。そのまま柔らかく押し付け、溶け合うようにと願いながら、頭の中で何かが仰け反って遠くへ去った。
 一緒にものを食べ、語り合う愛らしい口が、今ではぬくもりだけで語る。ここから愛しさが漏れて直に伝わってくると、確かに王は思った。スジニが苦し気に息をする。わずかな隙間を与えてやりながら、折れそうにその背を抱きしめた。離してやらない。
 彩りに添えられた香草の緑を皿から摘まみ上げると、葉を一枚だけ取った。千切られて瑞々しい芳香が漂う。
 「お前に高句麗の野山をやろう、な?」
唄うように言いながらスジニの鼻先にかざし、笑いながらそのまま口に押し込んだ。含み笑いをしながらスジニが噛み砕く。ますます強く漂う芳香ごと、王が覆い被さってその唇を飲み込んだ。
 小さな音をたてて唇が離れると、王は封でもするようにスジニの唇を指先で押さえた。楽しむように惜しむように、小さな音をたててスジニがその指に口づける。微笑んでためすがめつ、大きな手指を両手で弄んだ。

 

***

 

 房事ばかりが大事とも思いませんが、それでも少しは満たされてみたいではありませんか?ミヒはそう言ってスジニを見た。
 「わたくしが期待しすぎなのかしら。」
そう言うとなにか思い出したようなうっとりした目を膝に落とし、ため息をついた。それを見たスジニは心臓が転がり出そうな鼓動を感じ、次いで頭に血が上った。まさしくふたりは同じものを思い描いていた。大きな掌。無骨だがすんなりと長い指。太王の手。
 「とてもお美しいですわ。朱雀将軍。紅を—」
ミヒの小指が紅をとり、そっとスジニの唇に触れる。
 「噛まないでくださいませね。」
冗談とも本気ともつかないミヒの言葉にスジニが思わず口を開けて笑う。まさしくその衝動を抑えたところだった。

 

***

 

 今度、野駆けでもするかな?今時分の野山は美しかろう。今年は雪が消えるのが早かった。種蒔きも早くなるだろうな。いつもなら、スジニが話して王は聞き手に回ることが多いのに、低く囁くようなびろうどの声で問わず語りを聞かせながら、片手をスジニが弄ぶのに任せていた。湿った髪を煩そうに跳ね上げて、掌を頬に抱いたスジニを見つめる。今日は随分静かだ。
 「どうした、ちゃんと起きてるか?」
茶化すように額をつつく。少し尖らせた口元に、皿の蔭からとり上げたものが差し出された。ケナリの一枝。
 「今日の分」
笑って髪に挿す。逆にスジニの手をとって弄びながら、小さな杯から酒を舐めた。肉に香草を載せ、自分に、そしてスジニの口へと運ぶ。
 「あの狸親父を手ぶらで帰してやろうと思ってな。多分うまくいくだろう。」
 「いつも伽耶には苦労されますね。」
まったくだ。深く座って背を凭れかけて息をつく。今度は政治の話で、一足飛びに現実に戻ってきたようだった。弄んでいたスジニの手を卓上に置き、無意識にその甲を撫でた。また、スジニがその手をとった。
 「ずいぶん大人しいじゃないか。何だ、わたしの手に何かついてるか?」
掌を返して細い指を握る。こう黙っていると心配だった。
 「思っていることは口に出せと言ったろう?」
いえ、その。スジニがもごもごと口ごもる。目で促されて観念したように目を瞑った。
 「ただ、その、この手はわたしのものかと思って」
はは!白い歯が溢れ、声を上げた。
 「そうとも。これはお前のものだ—どうして手なのか知らないが…。続きを聞きたいか?」
意地悪く問われてスジニがむくれた。またこうやって苛められる!こうして言わされた後、それが何倍にもなって心に刻まれる。
 「…いいことならばそりゃあ聞きたいです」
王が耳元で囁く。たちまち頬に朱が差した。いいことだったろう?ならば褒美が欲しいな。
 どうも王はスジニから仕掛ける口づけが気に入ってしまったようだ。ぎこちなく、どうやら顔を寄せると、湿った袖を掴んで唇を合わせた。柔らかく唇をつつく。やがて侵入し浅く絡み合うと、滑らかに引いた。王が首を捻って逃れ、瞳を煌めかせた。首の後ろを支えて抱え込むと、強引に吸った。思わず声が漏れる。
 「これでは戻れなくなる」
そう言って笑った。
 長椅子の絹の枕にスジニを凭れさせると、もう一度唇を落とし、微笑みを残して王は消えた。雨音は止んでいる。髪から落ちたケナリのひと枝を膝から拾い上げ、スジニは微笑みを浮かべた。王の囁きを繰り返し反芻しながら。

 —言わなかったっけ?わたしはすべてお前のものだって。

 
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