屋根裏部屋
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少年は丘を越えて

 その夜、王が寝床に入ってもスジニは戻らなかった。常ならば、忙しい王が戻ると先にスジニがまどろんでいて、その隣に滑り込んで優しく起こしてしまう。または二人で寛ぎながら、こちらへ来いと王が寝台に呼ぶ。日頃から眠りの浅い王は目覚めては手を伸ばしたが、その不在を確かめるだけだった。幾度目かにとうとう起き上がり、白い夜着のまま素足に沓を履くと、そっと寝間を抜け出した。春めいて、湿った空気は土と草の香りに満ちている。あちらこちらで不寝番にぎょっとされながら、その度に唇に指を当てる。大股に飛ぶように歩いて、王宮を抜け太子宮へと滑り込んだ。
 太子が「イモの部屋」と呼ぶスジニの部屋は太子宮の中央にある。育ての母である叔母に、太子が一番大きな部屋を与えたのだ。回廊のかすかな灯りを頼りに、勝手知ったる宮を足早に歩き、ようやく扉の前に着いた。
 「スジニ」
暗闇に向かって小声で呼ぶが返事はない。
 「スジニ」
もう一度呼んで、寝台に向かって一歩踏み出した。ばさばさと紙が崩れる音がして、さらに何かがどしんと落ちた。
 「父上」
寝ぼけた声に呆気にとられて手で探ると、広い寝台の上で書物に埋まるようにして、コリョンが大の字になっていた。
 「どうして太子がここに寝ている?」
 「ここで寝るようにって、イモが…父上がいらしたら言うようにと、イモは…しばらく戻らないから、イモは自分の部屋に行くって。」
ようやくそう言うと、コリョンはまたすぐにことりと頭を落として寝入ってしまった。遠く物音が聞こえる。物音で乳母が起き出したようだ。不寝番がなにやら説明し、続いてまた誰か起き出した音がする。灯りが大きくなり、王はむっつりと「イモの部屋」を出た。使用人が居並んで、何事かと目を丸くして夜着の王を見つめた。
 「なんでもない。騒がせたな。」
首を振って王は王宮へと歩き出した。スジニは怒っているらしかった。

 

***

 

 いつもならば、朝一番に近衛隊長が挨拶にやってくる。王の居室を明け方に抜け出し、太子宮でコリョンと朝食をとった後、もう一度居室に戻ってくるか、軽装ならばまっすぐ執務室に来るのだが、そのどちらでもなかった。スジニは来なかった。
 「隊長は練兵場に直行されました。」
副隊長はおそるおそる告げると王の顔色を伺う。これはいささか子どもじみてはいないだろうか。王は無言で立ち上がった。
 憮然としたまま、山のような国務に向かう。いつものように恐ろしい早さで文書を読み飛ばし、指示を出し、内官や書記をきりきり舞いさせていると、だんだん気持ちが収まってきた。自分の口から、ミヒのことをこのうえなく穏やかに説明しなければならない。いささかわかりにくい、説明しづらい関係なのは確かだが、スジニならきっとわかってくれるに違いない。
 そこまでをようやく考えた時には、もはや陽が傾いていた。机上の書類を束ねて王が立ち上がると、執務室の全員が驚いて視線を寄越した。不夜城のごときこの部屋で、主が少しでも陽のあるうちに退室するなど、実に稀なことだ。
 「ああ、—伝えた分は明朝見る。それまでに頼む。」
主はなくとも、いつも通りの夜になりそうだ。それでも皆多少気が抜けたのかほっと息を吐き、足早に出て行く王を見送った。

 

 —自分の部屋に行く。
 別棟になっている後宮は、スジニの妃としての地位を示すために設えられたものだが、ほとんど使われたことがなかった。その大部分は空き部屋で、整えたのはほんの一角にすぎない。使用人もいるにはいたが、普段は人気がなくがらんとしている。自分の部屋と呼ぶのは不思議な気がしたが、いくらスジニとはいえ、ここに居るのなら衛兵を配したほうがいいのではないか。それにしても、なぜ突然に後宮なのかと訝しく思いながら、侍従を一人だけ従えて、辺りを伺いながらぽつぽつと歩いて行く。ようやく人影があり、王の姿を認めた近衛隊の女兵士が驚いて敬礼した。
 「朱雀将軍はこちらか。」
どこからか、かすかに話し声がする。不審気に兵を振り向くと、ためらいがちに答えた。
 「お客様がいらしております。」
客?ますます不審そうに、王は侍従を手振りで下がらせた。扉をくぐると香が匂う。覚えのある香りに、王は思わず額に手をやった。
 先ほどまで聞こえていた声は静まり、今ではただ香りだけが女人の存在を伝えている。こほん、先触れの代わりに咳払いをひとつして、王はそっと中を覗き込んだ。
 部屋一杯に広げられた色とりどりの絹、その真ん中に女がふたり、鏡を手に立っている。スジニとミヒだった。

 

 王はスジニしか目に入っていなかった。戸口に呆然と立ち尽くしたその姿にミヒが苦笑する。たしかに、瑞々しく美しい。すみれ色の胴衣に薄い若草色の裳をつけて、スジニは春の朝露のようだった。衿元にはわずかに紫根色が覗く。特筆すべきは髪、うねりをつけて高く巻き上げられた黒髪は、一本の笄で器用に留められていた。見事な紅玉をあしらった金細工の笄から、一房の髪が真っすぐうなじに沿って流れ落ちる。白い顔に一輪、山野より一足早くふっくらと桃の花が咲いていた。その紅を差した唇が開き、いつもの声がした。
 「王様」
ついでミヒが振り仰ぎ、にっこりと笑った。
 「将軍は装いがいがございますね。」
紅の蓋をするとそれを卓に置き、うっとりとスジニを見つめる。
 「さよなら、将軍様。」
ミヒはそのまま戸口をすり抜けるように出て行った。香が流れて着いて行った。

 

 幾重にも広げられた絹をかき寄せて、王は長椅子の端に座った。スジニは鏡を覗き込んだまま動かない。
 「おい」
答えない。
 「スジニ」
甘く呼ぶがやはり答えない。
 「ここへ—」
ここへ座れ。そう言う前に、スジニがすっと動いた。言葉にされると従ってしまう。その前に自ら王の前に立った。
 「なあ、怒っているな?」
見上げられた視線を避けて、ぶんぶんと頭を振る。美しく髪を結い上げているのに照れを隠したような子どもっぽい仕草。いかにもスジニらしい様子に少し安心して、王は鏡を握った細い指をそっと撫でた。
 「なあ、言っておくが」
 「きれいな方ですね。」
言葉を被せて遮る。
 「あんなにきれいなのに毒がなくて。天然自然に女らしい方。」
確かにそれがミヒだが、王は相鎚を打たなかった。
 「ずいぶん仲良くなったようだな。」
 「これを頂いたので結ってもらったんです。」
そう言ってまた鏡を覗く。まんざらでもないような顔をしたかと思うと、布を取って紅を拭き取ろうとする。それを王が止めた。立ち上がり、やんわりと唇に手を伸ばして遮る。
 「せっかくの装いだ。桃の花を所望する。」
軽く手を添えて顎を持ち上げるとしっとりと口づけた。常になく深追いせずに唇を離す。
 「やはりお前との間に何かあるようで嫌だな。」
スジニが笑う。その手から布を取り、王がそっと唇を拭った。軽く開かせた唇から舌が覗く。布を置き、誘われたように親指で唇をなぞった。じっと瞳を見つめながら指が止まる。改めて唇を寄せようとしたところで、スジニが思い切り噛んだ。
 「いたっ、おい!」
 「全て聞きましたから、もうこのお話は結構です」
燃えるような瞳で睨みつけている。王もその視線を真っ向から受けた。あの娘が何をどう話したというんだ。王は噛まれた指をスジニの唇にぐいっと押し付けた。

 
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