屋根裏部屋
space
space
 <--TOP PAGE 満ちる wax and wane <- Back   Next ->  
space space space space
line
space space space space
  1・・2・・3・・4・・5・6(了)  
space space space
満ちる

5 Fatherhood

 生温く濡れる感触で目が覚めた。王の腕の中でスジニが背を丸めて呻いた。
 「タルビさんを呼んでください。」
寝台はびしょ濡れだった。
 「はやく出ておいでなんて言ったから…どうしよう。王様を濡らしてしまいました。」
あまりの痛みに囁くような声になって、スジニは笑ってみせた。額にびっしり玉のような汗が光っている。
 突然、全てが音を立てて動き出した。湯を沸かす下女が走り回り、産婆がスジニを支えて産室に消えた。寝台に取り残された王は、差し出される衣に呆然と袖を通した。まだ早いのではなかったか?こんなに突然来るのか?
 枕元の卓に、香嚢がぽつんと残されていた。母の形見をスジニに与えたのは二度目だ。山に分け入って自分を産み、そのために亡くなった母。思わぬ連想に王の背筋が凍った。
 「スジニ!」
戸を蹴立てて産室に入ろうとする王を、産婆が止めた。此処から先、殿方は入れません。たとえ国王陛下であっても。
 「スジニ—」
それを振り払って戸を開けた。スジニが、産み綱を握りしめて荒い息をしていた。湯気が立ちそうな全身に白い衣が貼り付いて、振り向くと濡れた髪から汗のしずくが落ちた。
 「スジニ!」
 「下がってください。これはわたしの戦です。」
歯を食いしばったその形相に、王は気圧されて黙った。眼前でぴしゃりと扉が閉められた。

 

***

 

 「王様、もうちっと落ち着かないと。こうなったら男にできることなんて何にもないんだから。」
チュムチの声は届いていなかった。王はじっと立ったまま一点を見つめている。部屋に入った時からその場を動かず、時折体の向きが変わっている。一所に立って回っているようなものだ。
 「腹の中には、赤子が泳いでいる水があるんです。それが流れ出たら赤子もじき出てくる。タルビの時はどのくらいかかったかな。半日というところか。まあそんなにかかるんだから、せめて座って待たないと。」
このまま水も飲まないんじゃないだろうな、そんなんじゃ子が出てきた頃には、おやじは日干しになってる。チュムチは侍従が用意した膳から水を取り、王の手に握らせた。
 「暑くて、スジニもたいへんだ。」
夏の陽射しが照るのを、チュムチが手をかざして見やった。
 「…凄まじい啖呵を切られた。下がっていろと。じぶんの戦だそうだ。」
思い出したように水を飲み干して王はようやく口を開き、初めて目に入ったように自分の椅子を引き寄せて腰を下ろした。チュムチは大荷物を降ろしたような息を吐いた。まったく、天下の太王がこれだ。
「あいつらしいな。戦ですか。たしかに、お産で猛った女というのは、戦ってかんじだよ。」
 王の執務室は空だった。チュムチと王はふたりきりで書類の山に埋まって座っていた。なぜここで待つのか見当もつかないが、いつもと違う王の様子にチュムチは次第に無口になった。タルビがチュムチをよこしたのだ。父親の先輩なんだから、陛下を安心させてさしあげて。タルビ、それは無理だ。チュムチは頭を抱えた。
 王は机に向かうと、書面の山からひと掴みを取り、順に目を通し始めた。
 「急に何なんだ。」
呆れるチュムチの前で、王は何通もの書面に目を走らせ、瞬く間に箱に投げ入れると次にとりかかった。
 「いつもしていることをしようと思って。」
 「だからって仕事かよ。それちゃんと読んでるんだろうな。」
さらさらと時が流れた。すさまじい勢いで書面の山を減らしていく王の横で、チュムチはこっくりと船を漕ぎ始めていた。
やがて、ばたばたと足音が近づいて、王の手が止まった。侍従が走り寄った。
 「スジニは?」
王のほうが先に声をかけた。侍従はその問いには答えなかった。
 「お生まれになりました。女のお子様です。」
 「そうか」
小さく息を吐く。
 「それが—お腹にもう一人、いらっしゃいます。」
 「双子かよ!たまげたな!」
飛び起きたチュムチの叫びを無視して、王は同じ問いを繰り返した。
 「それでスジニは?」
 「だいぶお疲れのようですが、もう少しかかるとのことで。こちらでお待ち頂きたいと—、陛下」
王はそのまま立ち上がり、後宮に向かった。

 

***

 

 髪を乱して駆けつけた王の姿にみな驚いたが、王はもっと驚いた。産婆は産室に入ったきりでタルビの姿も見えず、後宮は緊迫した静けさに包まれていた。ようやく医女がひとり出て来た。
「もう一人のお子様が、まだおりてきません。双子のお産は難しいものですから—」
医女は目を伏せて答えた。言葉を選び、その蔭に色々なことが伏せられている。王は医女の肩に両手を掛け、その目を覗き込んだ。
 「スジニはどんな状態だ。はっきり言え。」
 「何度か気を失われましたが—、気丈な方です。産婆がお子の頭の位置を正しましたので、その際少し出血されました。間もなくではと」
 「もっとなにかできないのか。」
 「今しばらくは、我らは待つことしかできません。」
 「スジニ!」
扉の向こうから、返答はなかった。辺りは静まり返って、拒むような扉の前に王はじっと立ち尽くした。ただ時が過ぎてゆく。夕暮れの光が長く差し込み、やがて辺りを赤く染めて消えていった。
 どこかで突然ばたばたと人が動いた。かすかな産声が耳に届いた。
 「姫様です!」
 「陛下、お二人目が」
 「スジニは!?」
立ち尽くした王の問いに、即答する声はなかった。弾かれたように産声が響き、産婆がようやく出てきた。血に染まった前掛け、全身汗みずくで髪が額に張り付き、震える腕は肘まで血に染まっている。身を揉むようにしてそれを拭った。
 「ひどく血を失っておられます。医女たちが手を尽くしておりますが、万が一」
こいつは何を言ってるんだ。その血はなんだ。それはスジニが流したのか。
 こちらでお休みください、誰かが誘う。ふらりと王の足下が揺れた。そのまま踵を返して、王は後宮を出た。昇ったばかりの巨大な満月が、その背を照らしていた。

 
space
 
space
    <- Back   Next ->  
space
line
space space space space
 <--TOP PAGE 1・・2・・3・・4・・5・6(了)  
 
  space  
line
  space  
  Copyright © kuro-kmd. All Rights Reserved. since 2010.  
  space