屋根裏部屋
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軍神

7 軍神

 戦況は五分五分。
 では味方の前に、敵を誘い出してやろう。太王は盾を構えて遠く旋回し、たちまち矢が届かぬ距離まで疾走した。遮るもののない平原だ。追い始めた敵兵を、背後から弓兵が狙い射ち、近衛兵が斬りつける。槍兵を射抜いたスジニが顔をしかめた。ずっと手綱を離したままだ。さすがに脚にきていた。馬が大きく逸れて走り出すのを抑えられない。
 「乗れ!いいから乗れ!」
 並走する青毛から、太王が叫んでいた。スジニが跳んだ。どうにか鞍に座り、息を切らして大きな背にもたれる。ほんのひと時、スジニは目を瞑って休んだ。
 急旋回し、また敵に割って入る。王の肩に左腕を当てて固定し、スジニは射続けた。また槍が飛ぶ。太王は半身を捻ってスジニを押さえ付け、身を伏せたまま馬が跳んだ。
 盾を構え、右腕一本で手綱を引いていた太王が、かすかに呻いた。その右腕から滴った血が、スジニの腕を濡らしていた。
 「王様!腕が!」
 「黙って狙え」
スジニの弓懸は血を吸ってじっとりと重くなり、掌は真っ赤に染まって粘ついていた。太王の鮮血に触れ、スジニの血が逆流し、沸騰した。
 自在に馬を操る背にぴたりと付いて、スジニは射続けた。首を射抜かれた死体が音もなく転がっていった。

 

 兵がようよう馬を駆る。瞬く間に空になった矢筒に矢を差し込んで、全力で軌道を逸れた。
 疾走しながらすべてを射抜く二人乗りの馬。漆黒の馬を駆る高句麗の太王、その背後に弓の化身のような朱雀将軍。剣を振り回す侍従の目が釘付けになった。軍神というものがあるのなら、それはこのような姿か。今や全ての兵がその姿を追っていた。
 戦場は時が止まったようになっていた。恐怖に縛られた敵兵は、怯えた鶏のようにその場で射抜かれた。首を貫く矢の横で、恐怖の叫びが上がる。次の瞬間、その喉も射抜かれ声はかき消えた。
 恐怖。それは戦場で最悪の敵だ。一旦捕まれば、その先には死が待っている。

 

 新たに蹄の音が響き、後方に分断された兵たちが、ようやく流れ込んできた。
 ぽっかりと開けた平野。岩の周りに手負いの味方が座り込んでいる。一面の屍はすべて敵、敵。視線を移す先、いたるところに夫餘兵の骸が転がり、戦闘ははるか前方に移動していた。
 彼方の数百騎を目指し、軍は一気に駆けた。近づくにつれ、えも言われぬ殺気に馬脚が鈍った。
 もはや敵兵の姿はほとんどない。取り巻くようにしているのはすべて自軍。その中心にあるのは、黒づくめの軍神。
 「無駄に死ぬな。武器を捨てろ。」
これで幾度目か、降伏を促す太王の声が鋭く響いた。夫餘兵は、最後の一兵まで降伏しようとしない。太王の言葉は逆にその恐怖を緩め、ただ太王に斬り付けろとの命を思い出させたようだった。手負いの兵までが立ち上がっては向かってきた。
 背の矢筒に伸ばした手が空を探る。弓を捨てたスジニが鞍から滑り降りた。
 大きく振りかざし、雄叫びを上げて敵兵が斬りかかる。独特の細い剣が煌めいた。後ろから斬り掛かかった者は首を貫かれ、棒立ちの身体から鮮血が噴いた。返り血を避けたスジニの前で、ゆっくりとその体が崩れ落ちた。
 足がすくんだ兵らは、狂声を発し自らを鼓舞したが、遠目にも明らかにがくがくと膝を震わせていた。つかつかと歩くように寄ったスジニの剣先が舞った。すぐに鮮血の飛沫が追う。立て続けに四人ばかりを倒した。今度は避けもせず額から返り血を浴びて、スジニの半身は真っ赤に染まり、青白い顔色が際立った。
 「もういい!終わりだ!」
太王の声が響いた。それでもなお、スジニは剣を構えて立ち尽くしている。
 「終わりだ!スジニ。」
名を呼ばれ、柄ごと血で固まったようなスジニの手がピクリと動いた。ようやく何かが解けたように、ゆっくりと声の方を振り向くと、主の姿を探した。

 

 終わり。一兵も残さず、敵は絶えた。これをまさしく殲滅というのだ。草原を沈黙が支配していた。詰めかけた兵は隊列を整え、その目はおそるおそるふたりに注がれはじめた。
 太王は愛馬を鎮めるように、ゆっくり歩き回っていた。右腕から滴った血が鎧を染めている。髪は乱れ、頬には返り血が飛沫いていた。その横で立ち尽くすスジニに、近衛兵が栗毛を引いてきた。ようやく剣を納めると、縛り上げた肩を庇い、片手で器用に鞍に座った。血に濡れた軍靴で馬の腹が赤く染まる。騎乗して並んだ凄惨な姿に、ますます軍は静まり返った。
 右腕に目を落とし、太王は苦笑してみせた。つづいて頭を返し、兵に向かって不敵な笑みで語りかけた。
 「これで山のこちら側には一人の夫餘兵もいなくなった。相変わらず我が軍は負け方を知らないからな。ましてやこのような卑怯な相手に負けるわけがない。」
ようやく兵が沸いた。スジニが拳で頬を拭う。地を震わすような声が全軍の腹の底からわき上がり、槍が地を打った。雷に打たれたようになっていたアティラは、ようやく長い息を吐いた。あまりにも恐ろしい盟友の姿だった。

 

 それからほどなく、騎馬隊が追いついた。興奮した軍勢は、追われる危険も去ったのに夜を徹して走った。明け方の薄明かりの中、陣の松明が見えると割れるような歓声が上がった。軍は一気に陣へと流れ込んだ。
 暖かい粥が炊かれ、薬が煎じられていた。負傷者、中毒者が素早く集められる。アティラはその陣容に感心していた。医術者や兵站部、書記に多くを割いている。大国の余裕でもあるが、すべては太王の方針だった。
 ようやく毒が抜けた首領は、さりげなく王を探していた。魔法のように士気を操ってみせたが、その後わずかにふらついていた。姿を隠すほど重傷なのか、あの様子からは窺い知れない。もちろん、太王が自身の負傷をあからさまにするわけはなかった。

 
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