屋根裏部屋
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テサギエロティカ

 遼河は白く凍り付いていた。山城に引込んで掘られた水路も同様に固い氷となり、陣ではそれを火の周りで溶かしては用立てる日が続いていた。
 氷になれば流れては来ないから、次第に足を伸ばすことになる。水当番の兵卒が灰色の天を仰いで大きなくしゃみをした。
 ぶるりと首を振った男の鉄を打ち出した鎧が軽い音で鳴った。鎧が嵩張らないおかげで中には獣毛を編んだ下着を詰め込んでいる。肩先には朱雀軍の赤い徽章。槍を小脇に抱えた男は慌てて走り出した。氷を積んだ橇を引いて、馬は勝手知ったる道を歩き出していた。
 土は凍り草は枯れ、冬に北方を攻めるのは容易ではない。それでも高句麗太王は進軍を決めた。確信があった。もう間もなく機は熟すだろう——。
 何年も入念に張り巡らした間諜の網。周辺の小さな部族から漏れ聞こえる情報は、国内城の一室で丹念に編み上げられていった。突厥との会談が周辺の小部族を揺さぶったこと。安族が忽然と遼東から消えたこと。
 人心が離れた大国では税が集まらずに国庫は乾涸び、軍は満足な馬も購えない。苛立つ軍の勢力に押され、皇帝はますます増税に力を絞る。堪えかねた大守の使いが都に押し掛け、王宮には謁見を待つ長い列ができた。無策の皇帝は酒色に逃げた。
 がらんと人気のない大殿で、太王は玉座に向かって腕を組んで立っていた。吐く息がかすかに白く、半眼の鼻先を煙らせている。遠い大国の惨状が手に取るように浮かんでいた。冬の短い陽射しが差し込む暗い後燕の王宮。補給がままならない国境兵の無惨にひび割れた赤い手足。雪崩れるように下降する士気、死んだような国境の防塁。
 背後でよく知った気配が動いた。足音を立てずにスジニが従っていた。
 「安族が消えたらしい。遼東に軍を配する」
ゆっくりと瞳を閉じたスジニの脳裏で赤い衣が翻った。川岸の奇妙な宴で、慕容盛の懐刀は諸刃の剣であると知った。しかもその刃には鬱積した恨みという猛毒が塗られている。またすぐにきらりと瞳が開いた。
 「将軍たちを招集します」
 「大がかりな戦だ。はじめからタルビも呼んでくれ」
 「ではチュムチが」
苦笑したスジニの言葉を太王が引き取った。
 「ああ。兵站は白虎軍だ」

 

 かねてからヒョンゴが進言していた通り、太王は秘密裏に長期戦を構えた。数度に渡って山城に兵を送り、周辺の民と結んで緻密な輸送網を作り上げた。兵糧、馬草、武器。どのように軍を養うか、遠征において全てはこの一点に懸かっているといってよい。無敗の太王の戦は、粥の塩味から兵の履物に至るまでの細かな集積であった。
 そのおかげで、じっと待つだけの戦に飽き飽きしてはいるものの、兵士たちはおおむね闊達さを保っている。食糧は最小限を目指したが、空腹を感じずに過ごすことはできる。小さな山城に分かれた陣は暖めやすく、将軍たちは人心を掴むことに長けていた。荒くれ男たちは相撲大会で身体を暖め、ささやかな報償を喜び、粗末な粥を分け合っては声を上げて笑った。
 ずらりと河に沿った高句麗軍の万全な前線は、こうして年をまたぎ敵を睨んでいた。分厚い皮の衣を着たコムル人が腹這いで橇に乗り、厚い氷が張った川岸からそろそろと漕ぎ出す。じっと瞑目し、ひと筋の水音がはっきりと聞こえた日。北からの大鳥が国内城に舞い降りた。間髪を入れず、石造りの大殿ではよく通る穏やかな声が自らの親征の号令を発したのだった。

 

***

 

 太王軍、七万。さらに物資を上積みした大軍勢は、威風堂々北を目指した。はためく黒赤の太王旗、続く荷車は圧倒的な量の矢と刀だ。余分な兵糧は持ち歩かず、近在の商人が代わる代わる随き従って最短の道を運んでいる。戦においてもきちんと商いになるように。太王の指示はそれだけだった。斯くして軍の行く先々では人が集まり市が立った。すべては高句麗の活発な経済活動のなせる技である。国は生き物、カネも物も滞ることなく回ることこそ国力を高めると、太王はさまざまな人脈と経験から学んでいた。
 勢いよくスジニが駆け出した。前線に置いた己の軍を気にしての先鋒だ。遼東をよく知るスジニは戦況を集めるのに適任で、太王の先触れとして駆ける寵妃は士気を鼓舞する華でもあった。炎の意匠をあしらった鎧は一隊を率いてあっという間に草原を駆け抜けて行った。すべての山城を回るのに五日はかかる。その頃には本陣が組み上がっているはずだ。再会の褥は太王の野営地のはずであったが——。
 一頭の馬が命からがら駆け込んだのはその翌日のことだった。建てたばかりの天幕の中、チュムチは男を片腕で抱え上げ、がくがくと揺すり上げた。
 「ええい、それじゃよくわからん。お前、戦況というのはな、もう少しこう・・・とにかく、もういっぺん言ってみろ!」
見事な彫りの長剣が咎めるように差し出された。穏やかならぬ仕草だが、太王はまだ平静を保っている。チュムチは王の気配に感応して腕を緩め、哀れな伝令はへなへなとその場に崩れ落ちた。
 「もう一度聞く。急襲された場所は」
よく知った川べりの一帯だった。小さな防塁が点在する中、短い陽を惜しんで早朝から移動していたという。敵兵に追われたスジニの一隊は自陣から次第に離され、後燕に向かって走らされた。
 「将軍自ら囮となり・・・十騎ほどが従っています。われらを逃がすために将軍は・・・」
おろおろと声を震わせる兵とて弓隊の強者だ。派手に走って敵をひきつけたスジニは、国境を越えて後燕に走り込んだ。味方の馬の鼻面に矢を放って後続を止めたという。兵の多くは最寄りの山城に駆け込んだはずだった。
 「よし。よく伝えに戻った」
蒼白の顔色で肩を震わせた兵士は、太王のねぎらいに平身低頭して突っ伏した。
 「そこから追っ手は出したのか!?ああ?王様、鳥でも何でも飛ばして、すぐスジニを探させないと!日が暮れちまうぞ!」
 「チュムチ。守りに徹する城だ。まだ早馬の用意がない」
 「だあ!まったく!数は!おい、敵の数!」
今にも胸倉を摑み上げそうなチュムチは、拳を握って空を殴っている。突然もたらされた不穏な一報に陣は凍り付いていた。
 「に、二百ほどかと」
ざわ、と空気が動いた。スジニの手勢はわずか十騎。倍、いやその倍までは難なく切り抜ける手練の一隊だが、しかし——。
 「くそっ!あの馬鹿、無茶しやがって!王様、どうする!」
ひときわ大きな鎧をがちゃがちゃと鳴らし、卓上に広げた地図に被さる。その背後で太王が佩剣を掴み音もなく立ち上がった。
 「チュムチ。予定通りに兵站の全軍を待って陣を張れ」
呆気に取られて振り向いた大男の眼前を翻った肩布が掠めた。はあ、ともふむ、ともつかぬ声を尻目に、漆黒の鎧は風のように天幕を走り出た。侍従のジンシクが慌てて従う。太王の早駆けに随ける者は自ずと決まっていて、近衛兵を中心にした一群が怒濤のように流れ出した。
 「くそ、やっぱり自分で行くのかよ!ええい、おれも!」
叶わぬ望みを口にして、大軍の総大将となったチュムチは天に向かって吠えた。
 「スジニ!」

 

***

 

 勝手を知った川岸だが、山城の門をくぐるのは初めてだった。かつての安族の城はやはり防塁を改築したものらしい。豪奢な設えと城塞の拵えがどうにもちぐはぐで、太王はわずかに口元を緩めた。これは確かにあのタムドクの居城と思えた。遼東から安族が忽然と消えた後、太王はこの城を最低限の監視の下で放っておいた。いつか奴らが戻るかもしれぬと、そんな思いがあったのかもしれなかった。
 腰を下ろした寝台は幾重もの絹で覆われ、褥は鎧の重さに柔らかく沈み込んだ。野営の陣とはほど遠い。すでに真夜中、一日の距離を半日で走り通し、夜明けの探索を命じて隊を整えたところだった。夜に紛れてはいるが、すでに片足を後燕の領土に踏み込んでいる。密かに動くにはこの地が限界だった。
 夜明けとともに動かねばならない。追われて一体スジニはどう走ったのか。いや、どう走らされたのか。敵は自らの軍へスジニを追い込もうとするだろう。一番近い後燕の国境守備は遼東城だ——。何里ある?今夜は月が明るい。走り通しかもしれない。そうなれば我らの馬が有利だが——
 数を抑えた松明が赤々と燃え上がり、いっこう解けぬ緊張が漲っている。自分の気がそうさせていると知りながら、太王は座ったなり空を睨んでいた。掌の下で柔らかな絹がさらりと音を立てる。滑らかな冷たい手触りは安タムドクの笑みを思い出させた。
 お前はさぞかし笑うだろうな。この地でよもや、スジニを——
巡らした薄幕の下で寝台にどうと倒れ込む。手甲をつけたままの手が暗く陰った眉間を覆った。

 

 
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